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兵庫県の皮革の歴史
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7. 藩財政を支えた製革業
文化6年(1809)からこの改革が行われたが、依然として「失費多く、収納は不納多く」財政の窮乏は更に激化した。そこで家臣からの借り米、倹約令の発令が繰り返され、あるいは在方(村方)の大庄屋の大半を廃止し、城外八代村に藩営の絞油業所を創設するなど、文化・文政期にかけて改革が実行されていった。この改革は、当時発展しつつあった皮革業をどのように掌握したであろうか。

文政3年(1820)2月、姫路中二階町の革細工物職人21人の連名で、革細工物を他所、他町で売りさばくこと、他所物を姫略で売りさばくことを差止めてほしいという意味の歎願書の提出を受理して、連名人たちを保護することとした。

連名人を保護した藩は「革会所を二階町に設けて製品に一々捺印」したという。そして革細工物の生産を奨励したことはいうまでもない。危機に曝された藩財政は、この革細工物に格好の財源を見出したというべきであろう。

文政7年(1824)8月、藩は飾磨郡高木村に「革会所」を設置し、増尾久太夫(大阪堺の御用商人)、岡部順兵衛、三森麦倉の3人を「革掛り」に任命した。そして製品にはすべて会所の極印を押し、枚数に応じて運上金を賦課したのである。

こうして、徳川中期以後の全国的な商品経済の発展の波に乗って展開しつつあった姫路藩における皮革業も、鞣製、加工の両面から藩の統制下に組み入れられたのである。藩は進んで皮革業を保護・奨励したが、その製品は一旦藩の「革会所」を通すことなしに処分することは不可能となった。同藩の皮革業は、その原皮を領内「斃(たおれ・へい)牛馬」に限られることなく、大阪商人を通じて原皮が移入され、「白靼革」の生産が行われていたのである。

白靼革の生産の中心地であった高木村では、全村あげて白靼革の製造に当ったといわれる。

天保年間、高木村の全耕地面積の63%強に当る田畑14町5反を所有し、他人の土地を踏まずに隣村に行けたほどの大地主であった仁太夫が、高木村の「白靼革」を支配していた。彼は村民から親方、旦那と呼ばれ、城郭のような大邸宅に居住し、大阪の問屋から原皮の供給を受け、船で飾磨郡 四郷村の港に陸揚し、高瀬舟(荷物運搬用の小舟)に積み替えて市川をさかのばり、積荷の到着と同時にそれを村民に割当てて賃加工させたのである。

こうして賃加工された製品は再び一括されて革会所を通して、大阪の問屋へ送られたといわれている。事実、高木村における「白靼革」の生産者は、まったく大阪商人資本の支配下における賃加工という形で行われた。かくて徳川中期以後の姫路藩における皮革業は、いわゆる「自靼革」を中心に広汎な発展を遂げっつあったが、文化・文政期を区切りとする藩財政の危機を乗切る政策の一つとして、藩の統制下に組入れられるようになった。すでに藩財政の危機過程で、大商人と共存関係を結んでいた藩権力が、土地支配者を通じて、そこでの皮革業の展開に対応しながら、利潤を摘みとり、財政緩和の一助にしようとした意図は、先に述べた革会所の設置によって確立されたとみてよいであろう。

姫路藩における皮革業の大まかな仕組みは、以上の通りであるが、これは姫路藩にのみ限られていたわけではなかった。徳川中期以後の商品経済の発展につれてあらわになった領主財政の窮乏は各藩共通の現象であり、各藩はそれぞれ、このような方法で財政建直し策を積極的に行った。このころの皮革業は多かれ少なかれ、こうした政策の財源吸引組織の中に組み入れられていたものとみてよいであろう。

姫路白鞣革の天日晒 昭和42年
姫路革細工の第一人者 名定一呂
昭和62年
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